人生の悩み方

「努力は選べない──挑戦の中にしか“努力”は宿らない」

投稿日:2025年6月

 「努力をすれば優れた人間になれる」「優れた人は努力をしている」、そう信じてはいないだろうか。だが私は、その前提に疑問を投げかけたい。この記事では、「努力をすることはできない」という立場から論を展開する。まず、努力とは何か。一般的には、時間と労力を注ぎ目標に向かう行為だとされるだろう。しかし、ここで焦点を当てたいのは、「人が意図的に努力を選び取ることができるのか」という点である。目標達成には「構成要素の明確化」「他者による評価」「終点の設定」という三つの条件が必要であり、それらが満たされて初めて努力は成立する。たとえば大学受験では、求められる学力を理解し、参考書や模試で鍛錬を積み、試験を受けて合否で評価されるという一連の流れが存在する。この過程において、努力はどこにあるのだろうか。

 努力とは、確かに目標の実現に向けて心身を労することと辞書にはあるが、その本質は「効果的な手段を模索し、自身の能力を高める能動的な行為」にあると私は考えている。だがここに一つのパラドックスがある。仮にバットを毎日一万回振っても、それが受験の合格に結びつかないなら、それは努力とは呼べない。つまり、努力とは単なる苦労ではなく、「効果的な方法で能力を高める」ことが前提なのだ。だがその「効果的かどうか」は、結果を出してみなければ判断できない。だからこそ、私は「努力は結果が出て初めて“努力だった”とわかるものであり、あらかじめ選択できるものではない」と主張するのだ。

 もう一つ、大学入試の例を挙げよう。同じ参考書を使い、同じ学習時間を費やしても、合格する人とそうでない人が存在する。違いはどこにあるのか。それは、おそらく自分にとって適切な学習方法=“効果的な手段”を偶然にも発見できたかどうかである。この「偶然の一致」があって初めて、努力は実を結ぶ。しかしこの「偶然」は制御できない。つまり、「努力しよう」と思っても、結果的にそれが有効だったかどうかは誰にもわからない。だから私は、「努力する」という行為自体を選択することはできないと結論付ける。

 それでも、私は努力を否定しているわけではない。むしろ、人間はもっと挑戦すべきだと考えている。なぜなら、挑戦回数が増えるほどに自分にとっての“適切な努力”が明らかになるからだ。どれだけ模索しても正解が見えない中で、本気で取り組んだ姿勢は決して無駄にならない。仮に失敗しても、それは努力の不在ではなく、ひとつの試行の結果である。努力は「結果が証明するもの」であり、自分が努力したかどうかを決めるのは、未来の成果なのだ。だからこそ、挑戦を恐れず、歩みを止めないことが何よりも重要である。

「努力のための努力──矛盾に満ちた成長のパラドックス」

 私はこれまで、「努力とは自身の目標達成に向けた効果的な手段の模索と、自身の能力を高める行為である」と主張してきた。しかしながら、そこにひとつの矛盾が生じていることに気づいた。それは「努力をしたからといって、必ずしも目標が達成されるわけではない」という点である。これまでの私の論は、あたかも努力こそがすべての目標達成に通じる唯一の道であるかのように響いてしまっていた。それは私の本意ではない。努力は重要だが、それはあくまで“手段”の一部であって、決して万能ではない。私はこの点で、自身の主義に対して反省を抱いている。

 辞書的な定義では、努力とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること」とされている。だが、私はそれに加えて「効果的な手段の模索」も努力の本質に含めるべきだと考えている。これは一般的な定義とは相容れない視点だろう。なぜなら、ただ闇雲に頑張るだけでは、効果的とは言えないからだ。むしろ、自分にとって最も適した手段を模索すること自体が、真の意味での努力ではないかと私は感じている。ここで重要なのは、「努力とは苦労の多さではなく、合理性をもって自分を高める行為である」という新たな理解だ。

 しかしながら、効果的な手段を選択するには、そもそもその手段を“知っている”ことが前提となる。たとえば、アクティブリコールという学習法は非常に効果的であるにもかかわらず、その存在を知らなければ誰も選べない。つまり、「見識を広げること」こそが、努力以前に必要な行為となる。野球を知らない人がプロ野球選手になれないのと同じように、目標に到達するにはまず、そのための道が存在するということを知らなければならない。見識の拡張は、効果的な努力を可能にするための土台であり、努力に先立つ準備行為なのだ。

 しかしこの見識の拡張自体が、「効果的な手段の模索」であり、「心身を労してつとめる」ことに当てはまる以上、努力そのものであるという解釈が可能になる。つまり、努力をするためには先に努力が必要という、本末転倒な構造が立ち現れる。これは、「努力のための努力」という矛盾であり、私の理論の根幹に揺らぎをもたらすものである。私はこの矛盾を直視しながらも、なお「挑戦を繰り返すこと」が真の努力に近づく唯一の手段であると信じている。矛盾を抱えたままでも、前進する意志こそが、努力の本質ではないだろうか。

「努力を応援したい僕は、まだ努力の途中にいる」

 私はこれまで、「本当に効果的な手段が不明であるならば、事前に努力を選択することはできない」と主張してきた。しかし、その定義を突き詰める過程で、結果的に「努力のための努力」が必要であるという自己矛盾にたどり着いてしまった。

 それでも、私はこれから何か新しい夢や目標に向かって努力を重ねようとする人たちの姿を、心から応援したいと願っている。ただし、現時点の私は、努力を語る者として、むしろ人々をより深い苦労へと誘うことしかできないのではないかという自覚があり、自分の力不足を痛感している。

 私はいつか、日本という社会全体が目標達成に前向きな意識を持ち、活力に満ちた未来を築く姿を見てみたい。できることなら、自らの手でその一端を担いたいとすら思っている。しかし、現状の私は「目標達成に向けた効果的な手段」を持ち合わせておらず、まずは自らが「努力のための努力」を積み重ねていかなければならないと理解している。

 それでも、応援したいという気持ちは変わらない。だからこそ、私は「努力の可能性」にかけようとしているすべての人に、声をかけたい。もし、今を全力で生きているあなたが、何かを語りたくなったときは、このサイトのメールフォームを使っていつでも連絡してほしい。私は、ここにいる。あなたの努力が、大きな波を起こすその日を、心から楽しみにしている。

専門用語

  • アクティブリコール

    記憶にある情報を「意識的に思い出す」ことに重点を置いた学習法

参考リンク