「その人は本当に評価されているのか?」社会とルールに埋もれた"個性"の考察
投稿日:2025年5月
社会において人が他者を評価するとき、それは本当に”人”を見ているのだろうか。
日々のニュースやSNS、司法制度や企業の人事評価まで、あらゆる場面で繰り返される評価行為。しかしその実態を冷静に観察すると、評価の対象は人そのものではなく、”ルール”である可能性が浮かび上がる。
人間は社会的動物であり、秩序維持のためにルールを重視する。
したがって、評価もまた“ルールに従っているかどうか”が判断基準となりやすい。たとえば、芸能人のスキャンダルや著名人の不祥事が問題視されるのは、その行為が“逸脱”だからであり、当人の人格そのものが急に変化したわけではない。つまり、評価とは人格の本質ではなく、ルールとの距離を測る行為に過ぎない。
このような評価構造は、心理学で「社会規範的評価」として知られる。社会の統制を維持するためには、ある種の合理性が存在するのも事実だ。だが一方で、ルールから逸脱しながらも歴史的に再評価された人物──ガリレオ・ガリレイやヴァン・ゴッホのような存在もある。それは、社会が後になって認知を修正した結果であり、「正義」や「真理」がルールに先行していたことを意味する。
ここで注目すべきは、“再評価”という現象の構造である。
ルールが変化したから再評価されるのではない。変化したのは人間の「認知」、つまり世界の見方である。世界そのものは不変だとしても、人間は見方を修正しながら過去の評価を訂正していく。よって、評価の基準は本質的な正しさではなく、時代や構造によって左右される極めて相対的なものであるといえる。
また、評価の正当性はしばしば「偉い人信仰」に基づいて担保される。
制度や契約の根拠が「誰が決めたか」によって支えられているなら、それは権威構造への従属に過ぎない。たとえば国家や組織が存在しない空間(無政府状態)では、ルールも無効化される。この構造は、トマス・ホッブズが述べた“リヴァイアサン”の論理と通底する。だがもしその上位存在が誤った判断をしたとき、それを是正するメカニズムが存在しなければ、評価構造は自己矛盾に陥る。
さらに、評価される“個性”そのものもまた、構造に最適化された形でしか承認されない。
たとえば、ただ長身であることに価値はないが、バスケットボールで成果を上げれば評価される。ここにあるのは「個性の場依存性」であり、個性は常に“社会構造の中で役に立つかどうか”によって測られる。よって、個性の評価も絶対的なものではなく、あくまで文脈に従属する。
このように考えると、人は他者を評価しているようで、実のところは“ルールへの従順性”と“権威構造”の中で評価しているに過ぎない。
評価とは真実の追求ではなく、社会の中で「従いやすい構造」を維持するための装置──そう捉える視点が浮上してくる。
つまり評価とは、本質ではなく構造の産物である。
「誰かを評価する」という日常的行為は、実は「自分が所属する社会構造のルールに従って、誰が適応しているかを確認している」に過ぎないのではないか。その自覚がなければ、無自覚な権威主義に取り込まれる危険性すら孕んでいる。
そして、それに気づいたときにこそ、人は初めて“自分の評価軸”を問い直すことができる。
「人は人を評価しない──評価しているのは、社会という構造そのものだ。」
評価は人間の本質的な価値を映し出す鏡ではなく、社会的なルールと権威の投影である。
そのため、評価を鵜呑みにすることは「社会のルールに従う自分」を無自覚に受け入れているに過ぎない危険を孕む。
評価の背後にある構造を理解し、自身の評価軸を問い直すことこそが、真の個性の尊重と健全な社会関係の礎となる。