常識は語れるか──「普通は」という答えが成立しない理由
投稿日:2025年6月
「普通はこうだよ」「常識だから」。私たちは生きてきた中で幾度となくこうした言葉を耳にし、時に突きつけられてきた。疑問を抱いたとき、それに対する回答としてこのような言葉が返ってくることは少なくない。しかし、果たしてそれは真に答えになっているのだろうか?この問いを深めるため、私はアリストテレスの形相と質料の理論から着想を得て、自分なりの見解を示したい。
まず、常識や普通という概念は何か。これらは広く一般に共有されているとされる知識や振る舞いだが、その実体は非常に曖昧だ。確かに私たち一人ひとりの中に「普通のふるまい」や「常識」は暗黙知として存在するが、それを言語化し、説明できる人は多くない。
ここでアリストテレス主義の「形相(エイドス)」と「質料(ヒュレー)」を借りる。これは、あらゆる存在は質料(素材)が形相(本質)を実現することで成立するという考え方だ。常識や普通も個別の具体論(質料)が集まって初めて一般論(形相)となる、と置き換えられるだろう。
では、一般論は果たして独立した実体を持ちうるのか。マナーやモラルを例に考えると、公共の場でのマナーは多くの人々が暗黙のうちに共有している。しかしそれは個人の集合ではなく、施設や社会が安全・秩序を守るために設けたルールである。よって、それを単に「常識だから」と言うのは、根拠としては脆弱だと私は考える。
さらに、「一般を構成する個に偏りがあった場合、それは一般といえるのか」という問いも重要だ。社会は会社や学校、地域といった組織単位で考えると、共通目的は「現実の共同作業」であり、それぞれの判断基準は自分以外の要素に強く依存する。この場合、支え合いは存在しても、それがすぐに「一般」になるわけではない。ただの協力関係にすぎないのだ。
では、個はどこで一般となるのか。ここでは二つの可能性を挙げたい。①概念が外部から観測され、名前がつけられた場合。②概念を私的に利用するために名前を必要とした場合。前者では、常識は外から見える存在であり、場合によっては自己否定につながる。後者では、常識を盾にすることは他者と共有できるものではなく、むしろ誤用といえる。
では、常識や普通は誰が決めるべきなのだろうか。全員で決めるべきか、一部の権威が決めるべきか、それともその場の雰囲気を各個人が読み取り、自己責任で動くべきなのか。どのアプローチでもトラブルを防ぐことは可能だが、どれが唯一正しいとは断言しがたい。むしろ、常識というものはそもそも「決定しないもの」ではないだろうか。
常識は確かにそこにあるが、あえて語らずに暗黙で運用されることで機能している。逆に言えば、「常識だから」という説明は私的な利用にすぎず、説明責任を果たさない言葉だといえる。
常識は語れるか──「普通は」という答えが成立しない理由
私の最終的な結論はこうだ。常識とは推し量ることはできても、語ることができない存在である。だからこそ、疑問に対して「普通は」「常識だから」という回答は、根拠を伴わない不適切な答えだと強く主張する。もし何かを説明しようとするならば、一般論に頼るのではなく、具体的な理由と論拠を提示する必要があるだろう。